*** 二日目 ***


 兄が来た翌日も良い天気だった。
昼より少し前の時刻、
ラジオ体操から帰ってきた涼駈少年は勢いよく二階の自室へ飛び込む。
いそいそと机の前の椅子に座って小さな世界、すなわち虫カゴへ顔を寄せる。
その世界の住人であるカブトムシは
茶色いおしりを涼駈の方へ突き出したまま凝っと動かない。
指先でプラスチックの壁を叩いてみるがやはり微動だにしなかった。
少年の口がへの字に曲がった。これはつまらない。
――寝ているのだろうか?
 頬杖をついて思考を巡らせた結果、彼は「餌」という答えに行き着く。
昨日捕まえて以来何も与えていなかった。
何か餌になるものを祖母から貰おう、
そう思い立つと同時に廊下へ駈け出した所で兄と鉢合わせた。

「っと、走ったら危ないだろ」
「危なくない」
「俺ならまだいいけどさ、ばあちゃんにぶつかったらどうするんだよ。危ないだろ」

 凛瞳の日焼けした顔には窘めの表情が浮かんでいる。
いかにも"兄然"とした表情だ。
相手が正しいと認めつつも涼駈の中に反発心が起こる。
だが小学生の彼にとって、中学生の兄はいかにも自分より強く逆らい難い存在だ。
ささやかな抵抗として彼は兄の言葉には頷かず「ばあちゃんは?」と話をすり替えた。

「友達の家に行くって出かけてったよ。帰りは夕方だってさ」

 タイミングの悪さに肩を落として涼駈は一階へ下る。
後をついてくる凛瞳に「何」と八つ当たり気味に問うと、
「お前にじゃなくて、冷蔵庫に用があるんだよ」と苦笑を返された。

 冷蔵庫を覗き込む涼駈少年の小さな上体は半ば中に入りかけている。
肌に吹きかかるひんやりとした冷気は心地良いものの、
中々目当ての物を見つけられない事に彼は辟易していた。
というのも、祖母は野菜の一つ一つを
新聞で包んだ状態で野菜室へ保存しているので
包みを剥がさないと中身が分らないのだ。
剥がして、包み、戻す。
この動作を三回ほど繰り返した所で少年は幾分飽き始めていた。
――商店街で昆虫ゼリーを買ってきた方が早いかもしれない。

「なに探してるんだよ?」

 台所に隣接した食事室から凛瞳が声をかけてきた。
兄の手には麦茶で満たされたコップがある。
コップの中身は兄の肌と同じ色合いをしている。
涼駈は喉の渇きを覚えた。
――カブトムシの餌は後回しにしよう。少年は冷蔵庫から身を離した。

「……餌」

 食器棚から自分のコップを取り出しながら涼駈は呟く。
兄の向かいの席に座りコップを机の上へ置くと、
小麦色の腕が伸びてきてポットの麦茶を注いでくれた。

「餌?」
「カブトムシの餌、探してた」
「あいつ何でも食べるんじゃないの」

 その "何でも" の何かを探していたんだと胸中で返しつつ涼駈は喉を潤した。
窓から入ってくる蝉の声の暑苦しさと裏腹に室内は涼しい。
家に寄り添うように立つ木が日をしのいでくれている為だ。
ほとんど空になったコップを握り締めたまま少年が餌について思案していると、
凛瞳が「昼飯、食う?」と尋ねてくる。
その言葉に促されるように涼駈は空腹を覚えた。
小さな生き物に気を取られて忘れていたが、
彼は空腹を抱えて家へ戻ってきたのだった。

「……食べる」
「じゃあ食器出しといてな。俺、適当に野菜切ってくる」

 涼駈は食卓に置かれた鍋の蓋を持ち上げてみる。
鍋の底には笊が置かれ、素麺の盛られているのが見えた。
祖母が用意しておいてくれたものらしい。
腹が鳴りそうになるのを慌てて抑え、少年は食器棚へ向かった。

 机に皿を並べる傍ら、涼駈は台所の様子を伺い見る。
凛瞳はまな板の上でトマトの皮を剥いている所だ。
シンクの上のボールには水に浸けられた胡瓜が顔を覗かせている。
つい先ほどまで冷蔵庫から探し出そうとしていた緑色を発見し、
涼駈は少し不満顔になった。
――きっとこういうのを灯台下暗しと言うのだろう。
先日読んだ本から得た知識を引っ張りだして少年は一人得心する。

「さ、食うか」

 兄が食卓に置いた硝子の器には赤や緑の野菜が山を描いている。
少年の空腹は頂点に達した。

「いただきます」
「……いただきます」

 素麺をすする。
麺の滑らかな舌触りとつゆの冷たさが心地良い。
兄の切った野菜も瑞々しく美味しかった。
空腹だった涼駈は食事に熱中した。
黙々と食べ続け、腹が八割がた満たされた所でようやく一息をつく。
そして自分の外へ意識を向けた時、初めて室内の静けさが耳についた。
 テレビからは間断なく音が流れているものの
卓についている者の会話は無い。
隣の居間にかけられた風鈴の鳴る音が一際大きく聞こえた。
 ちらと視線を馳せてみれば、
兄はテレビを見ながら箸に挟んだ胡瓜を齧っている。
その横顔がつと涼駈へ向けられた。
思いがけず繋がった視線に涼駈は目をしばたたかせる。

「そういや、カブトムシって胡瓜食べるんじゃない?」

 少年の頭に机上の小さな世界が灯る。
彼は胡瓜を二切ればかり握りしめて二階へ駈け上った。

 プラスチックの容れ物の中で住人は半ば土に埋もれてじっとしている。
涼駈は虫カゴの天辺についている蓋を開いてカブトムシの脇に胡瓜を置いた。
暫く眺めてみたが、相手は一向に動く素振りを見せない。
側面をノックしてみた。やはり反応は無い。
――この玩具は面白くないなぁ。
少年は仕方なく一階へ戻る。

 食事室のテーブルには涼駈が立ち去る前と同様に皿やコップが並び、
テレビ画面も煌々と照り音声を流していた。
隣室の居間からは風鈴の澄んだ音が響いてくる。
何も変わらない風景の中、ただ兄の姿だけが見えない。
 どこへ行ったのだろうと考えた矢先、台所から微かな音がするのを耳が拾った。
そちらへ歩いていけば容易に兄の姿が見つかる。
普段は祖母が立っている場所に立つ日焼けした痩躯。
その手元から褪せた黄金のリボンが垂れ下がっているように見えて、
よくよく目を凝らしてみればそれは剥かれた梨の皮だという事が分かった。
兄は左手の梨を回しながら器用に皮を剥いていく。
どんどん伸びていたリボンはやがて伸長を止め、
梨の果肉は覆われる所なく露わになった。
弟の存在にはとうに気づいていたのだろう、
視線を手元へ向けたまま凛瞳が問いかけてくる。

「涼駈も、梨 食う?」
「……食べる」

 食欲に素直な涼駈少年は大人しく頷いた。
椅子に行儀良く座り、梨が運ばれてくるのを待つ。

「ほい」

 くし型に切られた梨をじっと見つめながら涼駈はカブトムシの事を思う。
――これも食べるだろうか?

「お礼は?」
「?」
「なにかしてもらったらお礼言うだろ、普通」

 憮然としつつも涼駈が「ありがとう」と言えば
凛瞳は納得した顔で自分の席へ腰を下ろす。
礼節に関してとやかく言わない祖母と暮らすのに慣れていた涼駈にとって
兄があれこれ指摘してくるのは正直煩わしい事だった。
しかしどこか懐かしい感じもする。
――何で懐かしいんだろう?
梨を齧りながら涼駈は頭をひねる。
二切れのうち一切れを食べ終えた彼は自分の食器を台所の流しの所へ運び、
もう一切れの梨を手に食事室を出た。


 二階の自室で涼駈は再び机の前の椅子に落ち着く。
虫カゴの中に変化は見られなかった。
胡瓜を食べた痕はない。カブトムシも前と同じ位置にいる。
虫かごを軽く揺すってみる。
住人は微かに身じろぎをした。生きてはいるらしい。
虫かごの蓋を開けて胡瓜の横に梨を置いてみる。
ようやくカブトムシが動き始めた。
入れたばかりの梨にのしかかって食事する様は悠々たるものだ。
自分が囚われの身であることを全く気にしていないように見える。
昆虫の立てる断続的な音に満腹の少年はうとうとまどろみ始める。
視界が暗転する間際、彼は耳元で潮騒を聞いた気がした。



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