*** スズカケ少年の、夏の終わり / 一日目 ***


『先生、僕は家族というものがよく分かりません。
 僕の親は三年前に りこんしました。
 なので僕は父さんといっしょにばあちゃんの家へきました。
 父さんはいそがしくて家にいません。
 ばあちゃんもよくでかけます。
 母さんとはずっと会っていません。
 兄ちゃんはーー』

 強い日差しが草木の陰影を深め、
蝉の輪唱が家全体を包む八月半ば。
肩から虫取りカゴを下げた涼駈(すずかけ)少年は
知らず知らずの内に忍び足で玄関へ向かった。
昭和初期に建てられた家の床板は時間を吸って黒く、
歩けばきしきしと音を立てる。
蝉の声に床鳴りの音、それに混じって愛犬ラムネの吠え声が聞こえてくる。
嬉しそうな鳴き肩からして知己の相手だろう。
そう考えつつ、少年は既に来客が誰であるかを知っていた。
二階の窓から家の前に伸びる道を一瞥した時、偶然その姿を見たのだ。
この時期にこの家を訪れる人物を彼は一人しか知らない。
兄だ。
 夏盆の時期になると、田舎の祖母宅で暮らす弟の元へ
決まって兄がやってくる。
それはここ数年恒例化している事だった。
引き戸に嵌め込まれた磨り硝子の向こう、
犬の動きに伴って褐色の影がゆらゆら揺らめく。
少年は虫カゴの紐をぎゅっと握りしめる。
止まりかけていた足に力を込めてそちらへと歩いていった。

 玄関の戸を開ける。
仄暗い室内から一転、外の世界は発光しているかのように目映い。
その輝きに輪郭を縁取られた少年が柴犬と戯れている。
快活そうな笑みと、よく焼けた肌の持ち主はやはり涼駈の兄だった。
ラムネは玄関より少し離れた所に繋がれているため
兄は弟の出現にまだ気づいていない。
それを良いことに涼駈は体を半ば戸に隠し、兄を観察し始めた。

 二人の歳の隔たりは四つばかり。
少年は一年に一度しか会わない兄の年齢を頭の中で計算し、
頭の中で"中学二年"と唱えた。
"中学二年"。涼駈にとっては未知の世界だ。
通学路で見かける中学生はみな大柄で何やら怖い印象がある。
道を行き交う人を見るような視線で弟は兄を見つめる。
前に会った時よりも背が伸びたようだ。
顔つきも少し大人びた気がしないでもない。
なにぶん、夏の数日間しか会わない相手なので明瞭に「どこがどう変わった」かは
涼駈には判断がつかない。
前に会った時の記憶が乏しい為だ。
とりあえず、今年も兄は来た。
それだけを認識して涼駈は外へ歩を進めた。

「涼駈! 久しぶり、背ぇ伸びたなぁ」

 弟の姿を見つけた兄の目と口が半月を描く。
嬉しそうな声音に幾らか心動かされたものの、
涼駈はキッと唇を結んだまま早足に兄の横をすり抜けた。

「おい涼駈! どこ行くんだよ」
「ハゲ山!」
「ばあちゃんは――」
「出かけてる!」

 更なる問いを受ける前にと涼駈は走り出す。
瞳は真っ直ぐ前に向かっていたが、
関心は玄関へ置き去りにしてきた兄の元へ留まったままだった。

---

 兄の名は凛瞳(りんどう)という。
紙の上に自分の名前と並べて兄の名を書きつけてみる時、
涼駈は彼が確かに自分の兄なのだろうと感じた。
少なくとも二人の名付け親は同じように思えた。
だが涼駈は兄の事をよく知らない。
兄弟が共に住んでいた頃、
友人の多い兄は家に居る時間が少なく彼らの関わりは乏しいものだった。
親の離婚により住居を別つた後は兄弟仲も一層希薄と化した。
 祖母の家で会う兄は妙に大人びていて、涼駈の記憶の中の兄と合致しない。
その印象は弟の心を兄から離し、
更に年に数日しか合わないという現実は少年の心を頑なにしていた。

 祖母の家で兄に接する時の少年の態度はごく冷淡である。
  「いまさら仲良くした所で何の意味があるのか」。
それが少年の考えだった。
 しかし兄は違う風に考えているようで、
弟の態度がどんなに素っ気なくともこうして必ずやってくる。
そう、必ずやってくる。その証拠に今年も兄は来た。
――今年も兄は来た。

 胸の奥でゴトゴト音を立てる無形の衝動を感じながら
涼駈は一心に走っていく。
舗装されていない道は乾燥して白く、少年の足に踏まれると小さな砂埃が舞った。
等間隔で並ぶ電信柱には蝉が群がり、懸命に夏を歌唱する、
畦道に並ぶ向日葵の一群が茶色い瞳を空へ投げかけていた。
――今年も兄は来た。
涼駈は駈ける。
身の内に溢れる衝動を足の裏へ乗せて、力強く大地を蹴り疾走し続けた。

---

 涼駈の通う小学校の裏手には小高い山がある。
子供たちはこの山を "ハゲ山" と呼んだ。
麓には木々が生い茂っているのに対し、
頂上付近には木がほとんど生えていない様を揶揄しているのだ。
 ハゲ山の入口手前には小さな商店があり、
鄙びた店内には駄菓子にアイス、ちょっとした日用品などが並んでいた。
涼駈少年がそこで到達した時、三人の少年たちは棒アイスを齧っている所だった。
全速力で走ってきた涼駈が汗まみれなのを見て彼らはケラケラと笑う。

「汗、すっげー! ダラダラじゃん!」
「雨に降られた人みたいになってるよ」

 服の裾で顔の汗を拭いながら涼駈は黙っていた。
いつもなら即言い返す所だが、出かけ間際の動揺がまだ残っている。

「なに? なんか静かだけど熱中症? 俺のラムネ飲む?」

 少年の内の一人、ユージが空色の瓶を差し出してくる。
それを受け取った涼駈は一気に半分ほど飲み干した。

「うわ、飲み過ぎだって! ラムネ、俺のラムネ!」
「お前このあいだ俺のジュース全部飲んだじゃん」

 瓶を返しながら涼駈はようやく一息ついた。
やっといつもの自分が帰ってきた、その感覚に全身の緊張が緩んでいく。

「スズが遅れるなんて珍しいね。いつも時間前には来てるのにさ」

 分厚い眼鏡のブリッジを押し上げつつコウヘイが首を傾げる。
と、そこでタクミがせっかちを発揮して軒下へ飛び出した。

「そんな事よりさっさとハゲ山行こうぜ。他の奴らに良いの採られちゃうだろ」
「ほいさー」

 少年たちはラムネの瓶やアイスの棒を回収箱へ入れて移動し始める。
日陰から出るや否や、強い日差しがジリジリと照りつけてきた。
夏の真っ只中に居るのを肌に感じながら涼駈たちはハゲ山を登っていく。
一同が肩から下げている虫カゴはプラスチック性で、
透明な面が日差しを弾いてキラと光る。
山を登っていく少年らの姿が木々の合間から見え隠れする度に虫かごが光る。
モールス信号のようにチカリチカリと瞬いた。

---

 夕方の五時。涼駈が家へ戻った時も空は明るいままだった。
山を駆け回って幾分重くなった体で玄関に入り、
外気よりも低い室温にホッとひと心地をつく。

「ただいま」

 靴を脱ぎながら声を上げるも返る声はない。
祖母はまだ帰っていないのだろうか。そう考えながら居間へ入っていく。

「おかえり」

 不意に声をかけられて涼駈は危うく虫かごを落としそうになる。
目を凝らしてみると仄暗い居間の縁側で兄が涼を取っていた。
兄のシルエットに切り取られた窓の外、紫がかった紅色の夕顔が幾つも花開いている。

「虫取りに行ったの? カゴ見せてよ」

 少年は目をしばたたかせて暫し佇む。
しかしやがて踵を返し、二階の自分の部屋へと駈けあがった。

「なんだよ、ケチだなー」

 階下から追ってくる兄の声は笑い交じりの朗らかなもので、
涼駈の反応など全く意に介していない様子だ。
少年は心に靄がかかるのを感じた。
兄のあの大人びた態度は少年の気に食わない所である。

「あら、帰ってたの」

 ベランダで洗濯物を取り込んでいた祖母の問いかけに
「うん」と短く返して涼駈は自室へ飛び込む。
大事に抱えていた虫かごを机の上に置いて、椅子に座ると共に机上へ突っ伏した。
机の表面はひんやりと心地よい。
少年の体温を多少冷ましてくれる。
 暫くじっとしていたが、何かが動く音を耳にして涼駈は顔を上げた。
虫カゴの中にはハゲ山の土や葉っぱ、それに木の切れ端などが入っている。
音は住人のカブトムシが立てているものだった。
自分の住処を調べているのか、うろうろと徘徊している。
 少年は新しい玩具を眺めながら一日の事を思い返す。
ハゲ山の涼しさ、タクミとコウヘイのささやかな喧嘩、
帰り道の駄菓子屋で食べた紐つきグミが当たりだった事……。

 友人らの思い出の中に兄の姿がふらりと紛れ込む。
それを頭から追い払って少年はごく浅い眠りの内へ沈んでいった。

→二日目

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