*** 夢題:春 ***


 うららかな春の昼下がり。
穏やかな日差しの降る道を歩いていた学生服姿の少年は、
鼻先へ掠めた梅の薫りにふと足を止めた。
左右を見回してみるも、道を挟む生垣の向こうに目当ての木の姿は見えない。
彼は脇に抱えていた小さく平べったい包みを反対側の脇に持ち替え、歩みを再開した。
古新聞で包装されたそれは、先ほど古書店で仕入れたものである。
これという目的もなく店へ足を踏み入れた彼が一目惚れした本であった。

 学校の授業が昼前に終わる土曜日、少年は必ずと言っていいほど古書店へ立ち寄る。
特別な読書家でもない彼が足しげく店に通う理由は店の空気にあった。
天井まで届く本棚。細長い長方形の木枠に密集する古びた本の行列。古書店特有の匂い。
昼間でもほの暗い店内にはどこか深海めいた空気が漂う。
古書店が沈むのは海洋の深海ではない。時代という層の深海だ。
少年は深海の底をゆっくりと歩いていく。いつも客は彼ひとりだ。
この位置からは見えないが、奥の台には馴染の店長が座っているのだろう。

 その日も彼はいつものように、端から順に背表紙を眺めていた。
少年の立っている棚はハードカバーの本が収められており、
背表紙に踊る文字はカッチリと厳めしい印象のものが多い。
漫然と運航していた彼の視線は、ある本の前でピタリと停止した。
少し顔を近づけて背表紙を凝視してみる。
赤地の背表紙には何も書かれていなかった。
日に焼けてインクの色が消えただとか、箔押しの箔が剥がれたという様子でもない。
元々何も書かれていなかったようだ。
本棚から引き抜いて確認してみたが、表紙にも裏表紙にも何も書かれていなかった。
紅色の表紙に指先で触れてみる。
微かなオウトツを感じさせる布地は、端の方が日に焼けて幾分褪せていた。
他の本とは異なる装いに少年は好奇心を覚え、ページをめくる。
本文の薄い紙は黄昏の色彩を帯びていた。
中身は詩集のようだった。
装丁の魅力に惹かれ、内容がどうであれ購入しようと決めていた少年は
さほど目を通さずに本を閉じる。
一ページ目に書かれていた「千夜子へ捧ぐ。」の一文が、
妙に味わい深く彼の頭の片隅に刻まれた。


 正体も無く薫った梅の事を考えながら少年はゆったりと歩を進める。
間近に迫った春休みをどう有意義に使うかを模索していた彼は、
また梅の薫りがするのに気づいて顔を上げた。
四方を見回してみる。やはり梅の木は無い。
何なのだろうと思いつつ視線を下げた先で、
小さな人影が曲がり角へ吸い込まれるのが見えた。
十字路を過ぎる際に人影の見えた道へ眼を向けてみれば、
十メートルほど向こう、目の覚める真紅色の着物を纏う少女の後ろ姿があった。
 まだ中学に上がる前の歳と見えて体つきはごく幼い。
濡れ烏色の髪は形の良い頭部に沿って流れ、春の日差しを弾いて艶やかに輝く。
顎の辺りでぶつりと断たれた髪の下に覗く首筋はほっそりとして極めて白い。
豪奢な帯の結び目が生み出す蝶の形は、
彼女の存在を一層非日常的な印象に仕立てあげた。
古書店で紅色の本と出会った時のように、少年の目は少女に惹きつけられる。
梅の薫りは彼女の方から漂ってくるようだった。
気にはなれど声をかける用事がある筈もなく、少年は十字路を横断し終える。
それから「どこの家の子だろう」と首を捻った。
住人しか通らないような小さな道である。
決まった顔しか見た事の無い場所で見知らぬ人を見かけた少年は
少々不思議な心地になりながらも、
きっとどこかの家の親戚の子が<遊びに来たのだろうと結論づけて
歩く速度を元に戻した。


   家に着くと彼は人気のない居間へ向かった。
スクエア型の卓袱台の前に腰を落ち着ける。
本を包む古新聞を破く彼の心拍数は僅かに速い。
ぼんやりとした灰色の包みから現れた本の表紙は、
古書店よりも明るい光に晒されても魅力が落ちる事は無かった。
深い紅の色合いは見る者を別の次元へ誘うような不思議な色香がある。
少年はいたずらにページを捲ってみる。
と、何かがページの間からハラリと舞い落ちた。
卓袱台の上へ落ちたのは赤い紙飛行機だった。
手のひらに載るような小さなもので、羽を閉じて縮こまっている。
それを隠していた本の表紙とよく似た色をしていた。
少年が紙飛行機を広げてみると、ふっと梅の薫りが漂う。
紙飛行機に鼻を寄せてみる。
しかし先ほどの薫りは幻だったのか、既に梅の匂いは無い。
少年は紙飛行機を投げてみた。
紙飛行機はふうわりと弧を描き少年の手元へ戻る。
何気なく紙飛行機を開いて正方形の紙に戻してしてみた彼は、
裏地の白い面に何かが書いてあるのに気づいた。

『ちよちゃんに おともだちができるよう この本を 書きました。
 春うまれの ちよちゃんに、
 梅の枝に咲く 花の数のように たくさんの おともだちができますように。』

 少年が折り紙を紙飛行機の形に折りなおした所で黒電話がジリリと鳴った。
春休みの旅行計画に関する友人の電話は、
少年の意識を赤い本から一時引き離した。




 その日の夜空は一点の曇りも無く、冴え冴えと輝く満月が眩しい晩だった。
深夜に目を覚ました少年は暗い天井を眺めやりながら、
一体なにが自分を起こしたのだろうとぼんやり考える。
少年の胸元には薄明りの帯が差し、部屋の中には空気の流れがある。
光と風は細く開けておいた窓から入ってくるものだった。
未だ半ば夢心地の彼は、室内が梅の薫りに満たされている事に突如として気づく。
まるで窓の外に満開の梅の木があるかのような濃密な薫りだ。
だが、この家の庭には梅の木などない。

 少年はゆっくりと体を起こし窓に手をかけた。
カラリと引いてみれば、冷たさのない風がふっと吹き込んでくる。
頭を眩ませる強い芳香よりも更に彼を驚かせたのは
窓の外に咲き誇る満開の梅の木だった。
桜と見まごうような大ぶりの枝には、
可憐な小さな桃色の花が重なり合うようにして咲き乱れている。
月明かりに照らしだされた梅の木はまるで自分の意思を持っているかのごとく
生き生きと腕を伸ばしていた。

 薄紅色の海の中、少年の目は真紅の色彩がぽつんと浮かんでいるのに気づく。
それは紅い紙飛行機だった。斜めに傾いだ格好で枝に引っかかっている。
紙飛行機は窓から手を伸ばせた届く位置にある。
少年は窓から身を乗り出し、手を差し伸べてみる。
だが、風も無いのに紙飛行機はふらりと揺れて地上へ滑り落ちて行った。
地面へ降れるか触れないかといった際に突風が起こり、
梅の木は体全体を震わせてざあざあと鳴く。
撹拌された夜気に梅の薫りが濃密に混じり、
千切られた数枚の花弁が雪のように舞った。

 少年が紙飛行機の落ちた場所に向かって目を凝らしてみると、
いつの間に現れたのか、一人の少女がそこに立っている。
黒髪のおかっぱに真紅の着物の彼女は紛れもなく昼間に彼が目にした少女である。
彼と彼女の間に伸びる梅の枝が互いの視線の交差を阻んだ。
よく見ようと少年が更に窓から身を乗り出そうとした所で彼は
自分が暗闇へ落下するような錯覚を覚え、そして布団の上で目を覚ました。




 台所でよく冷えたウーロン茶を一気に飲み干して少年はほっと息をつく。
体が冷えるにつれ、夢の不思議な感覚は少年の体から脱落していった。
それにしても、妙に現実味のある夢だったと彼は振り返る。
夢の中で目が覚めるのはいかにも不思議な感覚であったし、
その先に見た桃の咲き乱れる光景もぞっとするほど美しかった。
もっともこの夢に特別な意味は無く、
昨日の記憶がああいった形で現れただけなのだろう……と一人得心し、
彼はシンクの上にコップを置いて部屋へ引き返そうとした。
だが、勝手口の窓から差し込む月明かりのいつになく明るい様が少年の足を止めた。
まるで雪の日の晩のような明るさである。
いや、雪の日でもここまで明るくはならないだろう。

 勝手口へ歩み寄った少年は、はっとして動きを止めた。
微かに梅の薫りがしていた。
……これは夢の続きなのか。夢でないとしたら、一体何であるのか。
少年の思索は間もなく終わり、彼の足はひとりでに歩き出す。
強い予感が体を冷やす。少年は自分が何を感じているのかも分からず、
ただそのものの正体を見ようと目を見開いていた。
勝手口の鍵を開け、ドアノブを開く。
その先には芝生に覆われた、生垣沿いに背の低い木が生えているばかりの
平坦な庭が続いている筈だ。

 人肌の温もりを持った風が吹く。
少年の頬を掠めて薄紅色の花弁が一枚、室内へ舞い落ちる。
目の前に広がる光景をしばらく見つめた後、少年はゆっくりとまばたきをした。
勝手口の先には、右手と左手に梅の木を従えた長い道がどこまでも続いていた。
手前の梅の花弁は白く、奥へ進むにつれて紅色が濃くなっていく。
風の止んだ景色の中で梅の枝は花弁を零し続けて、
道の上には白や薄紅の痕が広がっていく。
見上げた夜空には月も星も見えない。
だのに梅たちは、まるで月や星を喰べたかのように煌々と照っている。
少年は道の終りを見透かそうとして遠くへ視線を投げてみるが、
だんだらの色彩はどこまでも果てずに続いていく。
自分の見ているものが幻なのかそれとも現実なのか。
立ちすくむ少年の足元に、ぽとり、と何かが落ちた。
漫然とした動きで彼はそれを拾い上げる。
赤い紙飛行機を手に顔を上げた少年は、そこに再び少女の姿を見いだした。
少女はやはりこちらに背を向けており、静謐に佇んでいる。
目を眩ませるような幻惑的な空気は、少女の方から漂ってくるようである。
少年は足は無意識の内に少女へ向かって歩き出していた。


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