*** 拝啓 親愛なる我が安全地帯殿 ***


 君の居ない庭に、今年も春が来ました。
離別の夏が去った後も、
季節は止まる事の出来ない車輪のように回り続けています。

 君との出会いは春だったと記憶しています。
生まれて間もない私は、桜の木の根元に小さく丸まっていました。
何人かの子供が私を覗き込み、背を撫でたり耳を引っ張ったりしました。
この世の道理をまだ知らなかった私はただひたすらに震えていました。
そこへ君が通りかかったのです。

 人間という種族の中で君がいかほど偉かったのか私は知りません。
しかし、君が私の前で脚を止めると、子供たちはたちまちさっと走り去りました。
恐る恐る細く開けた目に飛び込んできたのは、
こちらを見下ろす世にも恐ろしげな仏頂面でした。
ああ、これは悪い事になったと両の耳をぺったり伏せて私は一層小さくなりました。
その仏頂面は大きな手で私をひょいと持ち上げ、
体のあちらこちらを仔細に眺めまわします。
十分に検分し終えると、君は私を地面の上へ戻して
私の顎の下を良い塩梅に撫でてきました。
それは中々に心地よい撫で具合でしたので、
君が私を置いて歩いて行こうとした時に
ついつい後を追って行ったのでした。
君はこちらの尾行に気づくと、私をつまみあげて着物の懐へ入れました。
そこは少し前、母の胎内に居た時の温度と音を思い起こさせました。
心地よい温もりに瞼は自然と重くなります。
そしてすっかり君に身を委ねて、
泥のような快い眠りの中へ沈み込んでゆきました。

 ふと目を覚ました私は、自分が日差しの下に居ない事に気づきました。
着物の衿の合わせ目から顔を出してみますと、ぱっちりした瞳と出会います。
瞳の持ち主は赤いワンピースを着た、おかっぱ頭の愛らしい少女でした。

「あらお母さん、お父さんが猫攫いをしてきたわ」
「人聞きの悪い。これが私についてきたのだ」

 おかっぱの少女――小さなアヤ子は私の鼻をつんと指の腹で押します。
つくしのように小さな指先を舐めてやりますと、アヤ子は笑い声をたてました。
君の大きな手で廊下の上に下された私を、今度はアヤ子の小さな手が掬い上げます。

「この子はお嬢さん? お坊ちゃん? ああ、お坊ちゃんね。
 お父さん、この子はなんて名前なの?」
「まだ名前は無い。お前がつけてあげなさい」

 君がそう言うと、アヤ子はうれしそうに私に頬ずりしました。
そうして私はこの家の一員として迎え入れられたのでした。
この時、アヤ子はたっぷり七日ほどかけて私の名前を考えてくれましたが、
家人は皆自由に「猫助」だの「にゃん太郎」だの呼びますので、
ついにアヤ子もその名前を呼ぶのを止めてしまいました。
そして私も、どんな名前を付けてもらったのかを覚えていません。

 アヤ子の上には兄が三人ばかりいました。
一番上の兄は既に家を出ていた為、関わり合いはほとんどありません。
しかし二番目と三番目の兄は腕白盛りの年頃だったので、私は格好の玩具でした。
最初こそ無警戒に彼らの接近を許していた私ですが、
やがて彼らのドタドタとした足音を聞くや否や安全地帯へ逃げ込む術を覚えました。
安全地帯。それはこの家の主の膝の上です。
その上へ飛び乗ってしまえば、
子供たちはそれ以上私に手出しを出来なくなります。
君は大抵、本を読むか手紙を書くかをしていて、
私が膝に乗っても一向に頓着しません。
子供たちや細君が傍らに居る時、君は私に対して無関心を決め込んでました。
次男坊と三男坊はお互いの顔を見合い、度々首を傾げて言っていました。
「親父は猫に関心なぞ無いだろうに、どうして拾ってきたんだろう」と。
しかし周囲に人気が無い時、
君は私の頭や背中をゆったりと撫でてくれました。
君の手、仏頂面の奥に潜む、優しい気質の感じられる君の手が、
私はとても好きでした。

 書斎から縁側へ降りると、目の前に立派な桜の木がそびえているのが見えます。
その枝が無数の花を纏い、風に吹かれて花弁を散らす時、
風向きによっては縁側まで白い斑点が届きます。
そこで主人が腕枕をし、温かな春の日差しの中で
転寝している所に通りかかった私は
これはちょうど良い寝床だとばかりに彼の胸元に丸くなりました。
君はちょっと眉根を寄せたものの、その時分の私はまだ軽かったので、
そのままにしておいてくれました。
大きな手が私の背を撫でました。吹く風は緩く、温かでした。
瞼を閉じてからどれくらいの時間が経ったのでしょう。
眠りの淵から戻ってきた私が目を開きますと、
私の上にも君の上にも桜の花びらが落ちていました。
いつの間にか傍へ来ていた細君が、たおやかな指先で
君の髪に触れている花びらを摘み取っています。
その時の細君の面に広がっていた穏やかな微笑は、
幸福な春の象徴として私の記憶の底に今もたゆたっているのです。


 生の煌めく夏が過ぎ、
地面に落ちかかる影の濃さが幾らか薄くなる秋の入り。
私は、君の影が青白く薄まっている事に気づきました。
毎朝規則正しく同じ時間に起きていた人間が、
起きてこなくなりました。
私は安全地帯が無い事を寂しがり、
寝ている君の顔の横に座ってみたりしましたが
君はそんな私の存在に気づかない事もしばしばでした。

 そんな日々がしばらく続いたあくる日。
細君が大きなトランクに荷物を詰め始めました。
久方ぶりにきっちりと正装を着込んだ君が、
少し頼りない足取りで玄関へ向かいます。
小さなアヤ子は泣いていました。
私が皆の後を追って玄関へ行きますと、
帽子を頭に乗せた君がふと振り返って私を見ました。
そして膝を折って私を呼び寄せ、私の頭を大事そうに二三度撫でました。
皆の前で君が私を撫でたのは、これが初めての事でした。
そしてこれが君を見た最後の時でした。

 主の居なくなった家は俄かに活気が無くなったように感じました。
決して口数の多い主人ではなかったというのに、不思議な事でした。
君はいつ帰って来るのかしらん、そう思いながら私は庭を散策しました。
庭だけでは飽き足らず、町へ出た事もありました。
町のはずれの小川にも行きました。けれど君は見つかりません。
私の安全地帯も、頭や背を撫でてくれた大きな手も
町のどこにもありませんでした。

 ある六月の暮れ、生温かな空気の流れる新月の晩の事です。
私がぶらぶら小川の辺りを散歩していますと、
草むらの中で緑色の小さな灯りが飛び交うのが見えました。
蛍です。
チラチラと明滅を繰り返すか弱い光が、見渡す限りの宙に舞っていました。
小川の向こう岸にも微かに蛍の光が見受けられます。
私がぼうとそれらを眺めていますと、
不意に足元の草むらから金色の灯りが飛び立ちました。
大きさは他の蛍と同じですが、その輝きの強さは比べ物になりません。
空から落ちてきた星かしらと思う程の目の覚める強い煌めきを辺りに振りまき、
己の放つ光で自身の輪郭を朧月のようにぼやかしながら
小川の方へと飛んでいきます。
その光に何か懐かしいものを感じ、私は後を追いました。
川面に輝きを反射させながら、金色の蛍が水の上を渡っていきます。
私は水のせせらぎの間際でそれを見送りました。
頭の中には君の像が浮かんでいました。
その像は青白く掠れ、細部は曖昧にぼやけていきます。
蛍が川を渡り切ってしまうと、君の像は暗闇に溶けてしまいました。
私は鳴きました。君に向かって呼びかけました。
何べん鳴いても返事はありませんでした。
ただ、天と地で、星と蛍が静かに瞬いていました。
君が空へ還った晩の事でした。

 あれから幾つの季節が廻ったのでしょう。
庭の桜は何度咲き、散ったのでしょう。
人にとっては大した長さではなかったのかもしれません。
しかし私にとっては長い長い時が流れたように感じました。
今、私は君の居ない縁側に居ます。
池の端に佇む桜の木の枝は まるで君へ手を伸べるかのように、
化粧した腕を天へ天へと伸ばしています。
小さなアヤ子は美しく成長しました。
おかっぱだった髪は腰まで艶やかに伸び、
対の瞳に輝いていた好奇心の光は、
思慮深い微笑みの奥へ隠れるようになりました。
彼女は初夏の訪れる頃、数学教師の元へ嫁ぐのだそうです。
私がうとうとしている時、アヤ子は傍にやってきて私の頭を撫でてくれます。
それで私は君を期待して目を開くのですが、
そこにはあの仏頂面ではなく、優しく美しい眼差しがあるばかりです。

 私の影が青白く掠れ始めた事に気づいたのは何時からでしょう。
体も以前のように言う事をきかなくなりました。
縁側で眠る私の額の上に桜の花びらが落ちかかっても、
それを払おうという気も起きません。
きっと夏が来る前には君にまた会えるでしょう。
私の魂が金色の蛍となって川を渡り、彼岸で君と会いまみえる時を夢見て。
私は君の居ない春を過ごしています。

敬具


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